WEBエリアシフト 5-輪廻理解
グループワークで行っている「エリアシフトワーク」がどう言ったものなのか、また京都は遠くて受けれないと言う方の為に、その内容の一部を紹介していきます。ネット上で公開できるのには限度もありますが、それでも読むだけでも色々気付かれる事もあると思います。
*以下は別サイト「ゆらとふるへ」で公開している記事と同じものです。
心から見るアチラの世界
囚われと死後と輪廻転生

前回はアチラの世界でも、特に霊的な現象、成仏できない霊達の次元「次元の狭間」で起こる怪しひ事象を中心に語った。
今回は問題無く成仏できた場合に行く世界「アチラの世界」の話が中心になる。
「心」の目線で見ていくと、死後の世界も理解しやすくなる。
霊的な存在同士においても似た要素が惹きあう話を前回したが、これは魂レベルでの話なので、当然死後も似た要素が惹きあうと言える。
この要素とは言い方を変えれば「囚われ」だ。嫌悪も孤独も不安も、心が特定の状態に囚われる事によって引き起こされる。
死後はその囚われがさらに剥き出しになり、遮るモノの無い魂の世界だけに、さらに似た囚われを持つ者同士が惹かれ合う。
嫌悪の強い魂は、嫌悪の強い魂同士で惹かれあい争いを繰り返す。そこがいつしか地獄と呼ばれるようになる。
利他的な魂は、利他的な魂同士で惹かれあって、そこがいつしか天国と呼ばれるようになるのだ。
この人間界の中でもそうだ。優しい人は自然と優しい人同士で縁が深まりグループが出来る。利己的な人は利己的な人と縁が深まりグループが出来る。
そんな引き寄せが、あの世ではもっと極端に起こると思えばイイだろう。
もちろん実際には、そこに鬼がいたり天使がいたり神様がいたりと複雑だが、そこまで語りだすと話の目的から外れるので現時点ではアチラの世界も似た要素が惹きあう世界だと理解しておいてもらいたい。
死後の世界をこの「囚われ」と言う視点から整理してみたのが下の図だ。

死後の流れ
では、死後の流れを順に追ってみよう。上記の図中を見てもらいたい。
①の人間界で亡くなった後、普通は②に進む。いわゆる成仏と言う形でアチラの世に入る。たまに成仏できない魂もある。それは前回話した⑧の「次元の狭間」で動けなくなる状態だ。
問題無く成仏して②に入ると、いわゆる「三途の川」が出てくる。必ず川だとは限らず宗派によってもその表現は違うし、臨死体験者によってもニュアンスは違うが、何かを「渡る」と言う表現は共通している様だ。コチラとアチラの世界の境界を渡る段階だと考えると近いだろう。
よく罪の重い人は足が重くて川を渡れないなど表現されるが、「罪」も罪悪感と言う心の囚われで魂が重くなると思えば分かりやすい。
つまりこの②の段階は、「情報の壁」が取れて、自分自身の潜在レベルでの囚われが段々剥き出しになってくる段階だと考えればイイ。
そして生前を映す鏡を見る。これも臨死体験者によって表現は違うが、生きてきた人生を走馬灯の様に振り返ると言う点は共通している。それによってこれからどう言う次元に入るか決められる様な段階だ。
これは「情報の壁」がほとんど取れて己の囚われが完全に剥き出しになった段階と言えよう。
③では、抱えている囚われに見合った次元に入っていく。実際は天国の様な次元、地獄の様な次元は確かに色々ある。それら一つ一つがどんな世界かと興味のそそられやすい所ではあるのだが、それもまた沢山の魂によって作られた一つのイメージの次元に過ぎず、ある意味囚われでもあるので、ここでは具体的に書くつもりはない(何故イメージの次元だと‥そこまで言い切れるのかは後ほど説明する)。
ただ、あえて少し書くと、例えば宗教に入っている方にとっては、たしかにその宗派ごとに見合った天国や地獄があったりする。しかしこれはある意味、その宗派の魂たちが作り上げた天国地獄のイメージの次元と言っても過言ではない。
つまり今の信徒さん達同士のグループで死後一緒に集まって、そこを天国と呼んでいるのと同じ事だ。
なので今の信徒さん同士で「ああ死んでもこの人達とずっとこんな感じで一緒にいれたら幸せだ」と本当に感じれるのなら、どんどん信仰に励んでその天界に入ればいい。この世とは違い他の宗派の何者にも邪魔される事も無いのだから、まさに天国だ。
逆にもし「ええ?死んでも、この人達と一緒?ちょっとイヤ~」と思うのなら、ちょっと考え直した方がイイかも知れない。
そう言う意味で、アチラの世界を一言で言ってしまえば、似た魂が惹きあって成り立つ各次元が、そこにあると考えれば一番分かりやすい。
利他的な魂同士が惹かれあって天国が生じ、利己的な魂が惹かれあって地獄が生じる。同時にアチラの世界は、コチラの世界と違い、似ていない魂同士で接触する事は結構難しい次元の様だ。
だから死んで天国に行きたいと思うなら、天国があると考えるのではなく、自分の分身達が待ってる世界があると想像すればいい。それがちょっとイヤって感じる世界なら、生きてるうちに自分の分身達の世界に行きたいと思える様な自分になっておく事をお勧めする。
そんな天界(?)に入った後、多くの魂は、そこに永住できると言う感じでも無く、またコチラの世に転生してくる。④の段階だ。
何らかの目的、テーマを持って転生してくる。それはある意味、人間的囚われが残っている為に再び人間に転生してくると言えるのかもしれない。
もちろんその人の波長が人間界よりも天界の方が近ければ、その天界に残って、天使になったり高次の存在になったりする様な事もあるだろう。
輪廻の流れ
通常は先ほど書いた様に①>②>③>④を繰り返している人が多い。
私の場合、最近の生に限って言えば、前世で亡くなってから数カ月から数年ですぐに転生していた。ただ、生まれる前に「死んでる暇はない」と考えていた様なので誰でもそうなのかは分からない。
お客さんの中では、数年で転生してる人もいれば、数百年もの間⑧で彷徨い続けて、ようやく②からの流れに戻って転生する人もいた。
これはこの世に対する未練が強かったり、なかなか自分が死んでる事に気付けなかったりする場合⑧で留まってしまう事がある様だ。
ただ、よく自分の先祖が守護霊につくなんて話も聞くと思うが、先祖が守護霊だったら、その先祖の人は転生したりしないんだろうか?と不思議に思わないだろうか。
私自身、自分を守護してくれている存在に「あなたは誰ですか?」と聞くと「前世のオマエだ」と言われて、「どう言う事だろう??」と考えさせられた事もあった。
また、どーも同じ時代、同じ時期に別々の前世を持つ人もたまにいる。私自身、重なっている様に感じる前世がある。
前世で亡くなった時期が、今世で生まれる時期より後の様な記憶を思い出す人もいた。まぁ、あまりイメージが正確ではないだけだろうと気にはしていなかった。
しかし、そもそもそれらのつじつまを合わせようとする事自体が間違っているのかもしれない。生きてる人間は、こう言う事でさえ、どうしても理解しやすい様に人間的概念でムリに解釈しようとしやすい。
この世とあの世と次元からして違うのだから、時間の流れが違うのは当たり前と言えば当たり前だ。
前世も「過去の魂の記憶」として解釈しているが、もしかすると「過去」とは限らないかもしれない。アチラの世とは時間軸も違うんだから、前世が未来の地球だなんて事もあるかもしれないのだ。
なので明確には答えは出せないが、多くの魂の時間の流れの矛盾は、そう言う事があってもおかしくは無いと言う程度に考えておく事が無難だろう。
それよりも大切な事は、何故我々はここまで輪廻を繰り返すのかと言う点だ。
これは一言で言えば、自分に対する囚われを落とす為に輪廻を繰り返していると私は捉えている。
お客さんの前世を見ていても、もうそのほとんどが似た前世の繰り返しだ。いつまで続けるんだろうと怖くなるくらい繰り返している。
多分、この世の全ての人が、前世の記憶を保てるようになったら、みんな修業を始めて輪廻からの脱却を求めるだろう。それほど前世は知れば知るほど、その繰り返しにどうんざりする。
しかし、かと言って私はムリに前世を思い出す様にする必要もないとは思っている。
それはその人が何度も失敗を繰り返し生まれ変わる度に忘れるものの、魂レベルではしっかり根付いていくものもあるからだ。その積み重ねにより少しずつ魂は成長している。
そしてある程度成長すると、次は輪廻はするもののどこか違う惑星や宇宙、違う次元に転生するのかもしれない。そこではもしかすると輪廻の記憶を持ち越す事が普通の世界かもしれない。
そんな風に、それなりにその魂に見合った次元に転生すると私は考えてる。
地球の人間として生まれてきたという事は、当たり前だが魂のレベルが地球の人間レベルだと言う事だ。
前世を思い出す事以上に、自分の魂のレベルを認識しておく事も大事だろう。
人間界を振り返る
これまでの話で、理解されてきているとは思うが、人間と言うのは親子関係において非常に大きなネックを抱えている。あらゆる「囚われ」の原因要素が幼少期の親子関係から生じてしまう。それが輪廻を超えても引きずってしまう。
親がいなければ一人で生きていく事が出来ないと言う恐怖を最初に植えつけられてしまう社会になっている為に、その恐怖から逃れようとして「嫌悪」「孤独」「不安」の領域に偏ってしまいやすい。
これは逆に言えば親子関係の大切さ、親子の愛情と言うものを学ばされていると解釈すれば聞こえはいいが、同時に親子の愛情に囚われてしまっている為に、人間界での転生から逃れられないとも言える。
ここで、ちょっとあらためて宇宙人の前世の記憶が出た時の話を簡単に書きたい。
なんで急に宇宙人?と不思議に思うかもしれないが、この宇宙人の話からあらためて人間界の事で色々気付かされる事も沢山あったのでエリアシフトにも取り入れたかった。
宇宙人と書くと、これまた霊的な怪しさとはまた一味違う怪しさがそこにあり胡散臭さを感じさせるかもしれないが、この記事をここまで読んできてしまった時点で充分胡散臭いので、そのままあきらめて読み進めていただきたい。
霊は特に日本ではその情報は昔からあり、ある意味なじみ深い。しかし宇宙人については、様々な宇宙人に侵略される映画の影響もあり、イメージ的にイイ部分悪い部分に別れる。
ここで持ち出す話は、よい宇宙人の方の話になる。外見的には人間と変わらない。ただ住んでるのが地球ではなく遠い惑星で、しかも今から何万年も昔の時代の情報になる。
これは多くの人の魂が地球で誕生する以前は、また別の違う惑星で転生していた可能性を指している。ただ私の前世の記憶で出てきた宇宙人の前世では、明らかに今の人間の文明より精神的にも科学的にも進んでおり、自分は地球に転生して退化してしまったのかと考えさせられる記憶だった。
その時の体験話は、別記事「宇宙人の記憶」で詳しく書いてるので、そちらを参照して欲しい。
ここでは、その宇宙人の惑星の生活が地球とかけ離れて、とても高度な文明社会であり、かつ、とても快適だったのが特徴的なので、その地球との違いの特に気になった部分3つを書いてみる。
- 1.害をなす生命がいない
- 最初にその違いに気付いたのは、その惑星の草原らしき場所へ行った時、草原の様な場所としては感じられたのだが、地球の草原とは何かが大きく違う。その違いに意識を向けてみると、どーも害虫とか、そう言った害をなす生命が一切いない無菌の世界だったのだ。なので、その惑星では、まず病気が無いし、災害も起こらない。寿命も非常に長寿命で、外観的には20代ぐらいなのに、実際は何百歳何千歳って感じがした。
- 2.一緒に暮さない家族関係(人工授精)
- これが一番驚いたのだが、子供時代にさかのぼっても親と過ごしている場面が一切出てこない。親としての存在は感じられるが、生まれた時から一緒に暮らす事もなく、その惑星の全ての人々がそれぞれ一人で生きてきている感じだ。
おそらく地球で言う人工授精の様な形なんだとは思う。これによって自分の家族と他人と言う区別が生じない。その惑星の人々全体が家族の様な価値観を感じられた。
また恋人らしき存在も感じられたが、その相手もパートナーとして既に決められている人の様だった。なので別れるとか浮気とか、そんな概念自体が無く嫉妬や相手に執着する様な感情も感じられなかった。ただ生きていく上でのパートナーと言う感じだ。
そう言う意味では人間関係において非常に気持ち的に安心感に満たされ不安が何も感じられなかった。 - 3.感情が薄い
- 不満が生じない事に比例して満足も生じないのか、わりと淡々とした雰囲気で感情が薄い感じだった。
私は言われるまで気付かなかったのだが、似た様な宇宙人の前世を思い出したお客さんの話では、誰とでも心が通じ合ってる安心感があるので、わざわざ感情を出す必要自体が無いと言っていた。
確かに心はすごく通じてる感じがあったので、テレパシーで通じる世界なら喋る事も感情を表現する必要もないのかもしれない。
他にも特徴的な部分は色々あったのだが、特に気になったのは上記の三点だ。
さて、なぜそんな宇宙人の話をここで持ってきたのかと言うと、別にこの宇宙人の世界が実在するのかどうかは、ここでは問題では無い。
上記の価値観の特徴と、今の人間社会を比べてみた時に感じられるその違いから、色々な気付きが得られる点が重要なのだ。

特に気になったのは、その世界では人は親に育てられていない点だ。なので自分の親と他人を区別する概念がほとんどない。この為「グループ」を成す概念が生じないのだと思う。だから敵味方と言う概念もなく、人間関係に悩む原因そのものも起こらないのだろう。
私はこれまで、どう言う親子関係が理想的なのかと言う部分で、納得いく答えがなかなか得られなかった。
しかし、この前世を見てから、これは親子関係以前に、誰もが生まれた時から安心して大人になれる環境を確立する事の方が重要なのではと思えてきた。
この人間界では、親が子を育てる。でないと子供は生きていけない社会だからだ。この為、自分の家族と他人との間に愛し方に差が生じる。家族と言う「グループ」が出来てしまう。
そこから敵、味方と言う概念、愛している、愛していないと言う概念、あらゆる心地良さ、心地悪さと言う概念が生じて、「嫌悪」や「孤独」が生じる。あらゆる「囚われ」も大きくなる。
それらの感情の裏には罪悪感も生じる様になる。そう言うカルマも生じる。消化されないカルマは、惑星全体にも影響し、あらゆる災害にも通じているのかもしれない。魂も囚われを背負うようになると、そこからその囚われを取っていくのは難しく、この惑星で輪廻する様になったのかもしれない。
人間の言う「愛情」とは「愛」と「情」だ。純粋な「愛」とは違う。そのベースが特に幼少期に身につく。親に愛されないと生きていけないと言う概念を、「愛情」を学ばされる。
目の前で自分の子供と他人の子供が溺れていたら、多くの人は自分の子供をまず助けたいと感じる。これが「愛情」だ。愛し方に差が生じているのだ。これが人間世界とも言える。
人間社会においては「愛情」は大切だが、人間社会よりもっと高次な次元に行くと「愛情」よりも純粋な「愛」がベースの世界になっていく。自分の子供であろうと他人の子供であろうと気持ちに差を作らない世界だ。
先ほどの宇宙人の惑星も、そういう意味で、この地球よりは精神的に進化している世界なのだろう。
ただ実は、この宇宙人の前世を見てから色々考えさせられたのだが、人の魂は本当に最初から進化してきたのかと。この宇宙人の世界も何万年も昔の話だ。もしかするとこの宇宙人の世界に行きつくもっと前は、さらにもっと高次だった可能性もあるんじゃないかと。ある意味我々の魂は堕天使の様に「囚われ」が生じる事で堕ちてきた、分裂した魂なのではないかと。
なので魂の進化と言うよりは、元いた完全な状態に帰る事を目指しているのではと。そう考えた時、私は無宗教ではあるが、旧約聖書に出てくるアダムとイブの話やギリシャ神話や日本神話にしても、そこに囚われが生じる過程として見ると妙に重なるモノが感じられて仕方がない。
しかしそこまで語りだすとまたエリアシフトの話から大きくそれるので、そこに何かを感じる人はそれぞれで感じてもらうとして、ここでは次に話を進めよう。
天界
人間界は愛に差を作ってしまう世界だ。
そして先ほどの宇宙人の様な愛に差を作らない世界、これは私の中では天界のイメージに近い。
天界と言うのは、ここでは大まかに死んだあとに行く次元だととらえてもらえればいい。
元々、私が前世の記憶に気付けたのも、友人とこの天界での記憶を共有していた事に気付いたのがきっかけだった。
この天界と言う次元も様々な領域がある様で、簡単に「天界」と言う概念ではくくれない。
ちなみに私の記憶の中での天界だが、あらためてヒプノでも探っていったのだが、まぁひたすら会議をしていたと言う記憶が大半で、人間的に想像できる様な、そんなにすんごく楽しいって感じの印象が無い。
いや、人間界に比べると全然楽な世界と言うのは確かだが、それは人間界と言う比べる対象があるからそう感じるだけであって、天界に長く居座ると「苦しみ」もほとんどないが「楽しみ」と感じる事もそんなに無い。
これはつまり「楽しみ」と言うのは「苦しみ」があるから「楽しみ」と感じられるからだろう。
「苦しみ」が無ければ「楽しみ」を「楽しみ」だと気付く事が出来ない。
普段の生活で酸素を吸ってる事に「楽しみ」を感じられる人はいないだろう。しかし沈没する船に閉じ込められて、残り少ない酸素に苦しむ人は、地上に出て酸素を吸う事に幸せを感じられる。
同じ様に天界も長くいると「幸せ」を感じられなくなる。と言うより「楽しむ」事への関心が無くなる。
だから好んで会議ばかりしてたのだと思う。

会議と言うのは主にコチラの世界、人間界についての会議だった。同じ様に天界の記憶を持つ人の話では、人間界の「この人とこの人をこのタイミングで出合わせると社会がこう動く」なんて事を打ち合わせながら人間を動かす仕事をしていたと言う人もいた。まさに神々のチェスの駒みたいだ。
今この記事を読んでいる貴方も、もしかすると天に動かされて、この記事を読んでるのかもしれない。
うちのお客さんもそんな感じの人がとても多い。私も「なんでこうしなきゃなんないの」と思いつつ動いてる事はしょっちゅうだ。この記事を書いてる事自体もその一つだ。
さて、人間的な感覚で言えば、天界に行ったらそこでずっと幸せに暮らせるのかなと考えたいところだが、ここは、ちょっと微妙な所だ。
仏教で言う六道輪廻には、「地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天」と人間より上に「天」と言う次元が表されている。つまり「天」も、まだ輪廻の中と捉える事が出来る。
宗教的な理論や解釈に関しては、そもそも興味が無いので詳しくはないが、自分は解脱と言うのは「自我」が無くなった状態だと解釈している。
つまり「自我」がある限り、自分というものの存在に対する囚われがあり、その囚われがある限り、心が揺れる可能性がある。心が揺れる可能性があると言う事は、そこに何らかのカルマが生じる可能性があると言う事でもあり、何らかのカルマが生じる可能性があると言う事は、六道輪廻の中のどの世界に移る可能性も持ち合わせているものとも解釈できる。
何が言いたいのかと言うと、先ほどの天界に移動できたとしても、そこからまたいつでも人間界に堕ちてくる可能性もあると言う事だ。
よく天使が、人間に恋をして堕ちてくる・・なんて昔話もある。これも天使であっても「恋をする」と言う時点で「異性に執着する感情」が生じたと「自分への囚われも大きくなった」と解釈できる。
同時にその時点で心の領域が、天界のその次元より、人間界の次元の方が近い為に、天界を離れ、人間界に堕ちてくる・・と言う風に解釈する事ができる。人間界から見れば「愛する人の為に身を犠牲にして堕ちてきたのね!(涙)」と美しい話になりもするが、天使達のアチラの世界から見れば「あちゃ~(汗)」の話かもしれないと言う事だ。
先ほどの天界で人間を観察して操る仕事にしても、もしかするとそれに夢中になってしまった、人間界への興味が大きくなって囚われてしまったが為に、その人自身、人間界に堕ちてきたと捉える事も出来る。
ヒプノのお客さんでも、そう言った天使だったり、高次元の存在だった記憶を思い出す人もたまにいる。多くは「興味」であったり「情」と言った囚われに引っ張られて堕ちてしまう人が多い。たまに使命を持って堕ちてくる人もいるが、その凄まじい囚われに満ちたこの人間界に溺れて、コチラの世界で転生する様になってしまった人も多い。
様々な理由は考えられるにせよ、どれも「自我が強くなる」事によって堕ちてくる可能性があると言う意味では、確かに天界も六道輪廻の中と解釈できる。
もちろん我々、生きてる人間に考えられる領域にも限界があるので、天界ももっと沢山のレベルがあり、もっと高い次元の天界であれば、ある意味輪廻から外れているとも言えそうな次元まで繋がっているのかもしれないが、その辺りはさすがに私も生きているうちは確かめられないので、それぞれで亡くなった後に確認してみて欲しい。
天界の住人が、人間を助けたりサポートしたりするのも、そうする事によって、ある意味彼らもその天界に居続けられると言う部分もあるのかもしれない。
人間的に考えると、なんで天使や神々は、こんな愚かな人間をサポートしようとしてくれるのだろうと考えるかもしれないが、それだけ「利他的」だからこそ彼らも天界の住人として、そこに存在し続けられると言う捉え方も出来る。
つまり何度も書くが、アチラの世界も似た心の領域の魂が惹かれあう次元で成り立っており、天界も利他的な心の領域の魂が集まっているからこそ天界であるとも言えるのだろう。
宇宙
異次元突入
さて、天界についても色んな話があるので、もっと詳しく書きたい所だが、色々都合もあり一旦ここでは省略して宇宙の話に移る。
宇宙誕生と言えば、普通はビックバンをイメージするだろう。しかし、それは目に見える領域、この物質界においての話であって、アチラの世界が、どうやって誕生したかと言う話になると、もう想像する事さえ難しい。
ここでちょっと私の個人的な体験の話になる。これはサイト「ゆらとふるへ」においても昔の日記に記録していた神秘体験の記事だが、この体験が今考えても色んな事を感じるキーになっているので、改めて簡単に書いてみる。

私は普段からよく自覚夢を見る。自覚夢と言うのは、夢の中で「これは夢を見ているのだ」と自覚出来ている状態の夢の事だ。
この自覚夢に入ると何でも好きな様に自由自在に夢を操る事が出来る。空を飛んだり、宇宙に出てみたり、あなたが今想像しているあ~んな事とか、こ~んな事とかももちろん出来る。
この自覚夢に入るといつもやる事がある。それは壁を触って、その触覚に集中するのだ。これをやると急にガクンと次元が切り替わったような感覚が生じて、そのとたん夢が現実並みにリアルになるのだ。
すると、登場人物の存在感もやたらリアルになるので、夢の中で居酒屋に入って、店の主人に悩みごとを相談したりもできる。これは自分の潜在意識の一部と会話してるようなものだろう。なのでそこから色々ヒントを得る事も出来る。
で、そんなある時の事、これはもう5年以上昔の体験なのだが、ある夜また自覚夢に入った時の事だ。
いつもの様に壁に触って、触覚を研ぎ澄ます。するとガクンと次元が切り替わった感覚があり、辺りが急にリアルになる。
遊ぶのも飽きてきた頃だったので、ここでもっと価値のある事をしようと思い色々考えた末、自分を守ってくれてる存在の正体を見てみたいと思い捜してみる事にした。
その事を念じながら、夢の中をあちこち歩き探しまわる。すると突然、家らしき建物が見えてきた。きっとあの家に住んでるんだ!と思い、家に向かう。大きな扉のある家で「この中にいるんだ!」と確信し、勢いよく扉を開けてみた。すると・・そこには3mぐらいのでっかいひまわりの花が咲いていた。
「・・・・・」
ひまわりって・・何かちょっと抽象的過ぎる気もするが・・縁起良さそう(?)だし、まぁいっかぁ・・と思いとりあえず納得する事にした。
その後、もっと何か価値のある情報は得られないのかなーと考えてると急に辺りが真っ暗になって、ストンって感じで、また何か全く違う次元に入り込んだ感覚があった。

自分に何が起こったのかよくわからずじっとしてると、どこからともなく綺麗な音楽が聞こえてきたのだ。
次の瞬間、フワッとした感じで辺りが明るくなり、目の前に祭壇のようなものが現われた。
その祭壇に近づいた時、ムチャクチャ驚いたのだが、とにかくすごく鮮明で、こちらの現実以上の現実感があったのだ。
なんて言うか普段の現実の方が実は夢で、その祭壇のある空間の方が本当の現実と言う感覚なのだ。
そんなアホな事があるわけないと思い、その祭壇を触ってみたのだが、現実で普通のものを触る以上に感覚が鮮明で繊細で、何だか数ミクロンの単位で触覚が働いてるような、何とも表現しにくいが、とにかくやっぱりその空間の方が本当の現実だったんだって感じがすごくしたのだ。
その時、「ああ・・自分は帰って来たんだ、本当の現実に帰って来たんだ!ずっとここにいたい!でも、またあっち(この世)に戻らなきゃならなくなるんだろうな・・」と何故かそんな風に感じたのだ。
とにかくその次元にいる間に何か出来ないかと考えると、よく見たら祭壇の上の壁に無数の付箋が貼ってあった。
それが全て、自分に関する情報が書かれた物だと直感的に理解して、ちょっと覗いてみようと思った。
何を見ようかと考えるのだが思い浮かばず、とりあえず自分がいつ頃、結婚するのか見てみようと思った。
この様に発想が貧困だから、私はコチラの世に戻ってきてしまったのだろう(涙)。
で、いつ頃、結婚するのでしょう!と念じながら「これだ!」と思い、一枚の付箋をめくって見る。
すると・・。
「その時次第」と書いてあった。
・・・・って、なんでそんな中途半端な答えなんだ!
ダメダ、もっとちゃんと価値のある情報を得なければ!と思い、さらに色々探してみる。
ふと右手の方にまたどこかに繋がってる様な光が見える所があり、何となくだが、いわゆる天界的な世界が向こうにあって、そっちに行けば、誰かと会えるんじゃないかって感じがした。
で、そちらに向かおうとするが、その辺りから自分の意識が遠のいてくる感じがあって、ああ、この空間から離れてしまう!と思った次の瞬間には普通の自覚夢に戻ってしまいガックリ。
すぐにそのまま目が覚めて起きてしまった。
起き上がって、今見たあの空間は何だったのかすごく考え込んでしまった。単なるリアルな夢だったのか。でも、たまに見るようなリアルな夢以上の現実感があった・・と言うか、今この現実以上の鮮明感があったので、どう考えても夢ではない。むしろこの現実の方が夢みたいに不鮮明に感じられて、すごく変な感じだった。映画のマトリックスみたいな感じだ。
あらためて、この異次元の体験が一体何だったのか考えた。特に考えさせられたのは以下の点だ。
- この現実よりもその異次元の方が鮮明で現実味があった。
- その強烈な鮮明感はあっても、自分の情報が書かれた付箋といい、その次元にあるモノは自分のイメージで作られている感もあった。
つまり、この異次元がどういう次元なのかは分からないが、この現実以上の鮮明感のある次元でありながら、イメージで作られた感があると言う点が非常に引っかかったのだ。
つまり、あれだけ鮮明でありながら幻だとしたら、今我々のいるこの次元が幻に過ぎないのはもちろん、あの世に行っても本当の意味での現実世界と言うのは存在しないのではないかとさえ思えたのだ。
ただ自我があるから、世界を認識でき、その五感を通しての鮮明感によって仮に現実として錯覚しているに過ぎず、本当は全てが幻に過ぎない。
でもその幻に「囚われ」てしまっているがゆえに、あらゆる楽しみや苦しみが生じる。天国や地獄も生じる。全ての世界が「囚われ」から生じてる幻の世界なんじゃないかと思えてきたのだ。
囚われの宇宙
実は私の前世の記憶の中でチベットでの修業僧だった時の記憶も色々思い出してきているのだが、一部ブロックがかかっており見え難い部分があった。その部分を最近少しずつ無理やり見始めて、段々分かってきたのだが、その時の修行法の中に、何度も自分を地獄に落とすと言う様な修行法があった。
これは何の記憶だろうと思っていたのだが、ようは地獄の様な心の苦しみ、悲しみ、恐怖、物理的苦痛、衝撃も全てが幻に過ぎないと言う事を魂に叩き込んで感情を潰していく、自我に囚われない状態を作ろうとしてたのではないかと思う。
他にもちょっと公に書くとかなり危険思想に繋がり兼ねない修行法の記憶もありここでは書けないが、どれも徹底的に自己への執着を破壊していく様な修業だった。
ようは解脱と言うのは、どう言う状態かは解脱しないとわからない事ではあるが、我々一般人に想像できる範囲で言えば、全ての囚われの無い状態、自我そのものが無い状態ではないかと思う。
自我と言う意識、魂がある限り、やはりあらゆる囚われは生じるだろう。「自分がここにいる」と言う認識自体、自分と言う存在に対する囚われの表れに過ぎない。その自我がある限り、心も常に動いている。心が動くゆえに、心地良さ悪さを認識でき、それゆえ心地良さを求める様に我欲が生じ、あらゆる苦しみ楽しみが生じる様になる。
そもそも何故我々は、高い世界、楽な世界を望むのか。苦痛を苦痛だと感じるのか。
宇宙が誕生する前、コチラやアチラの次元が誕生する前、全てが生じる前は「無」だったと例えるなら、そこで何らかの「囚われ」が生じて「有」が生じる。そこから宇宙が広がり続ける様に、魂もどんどん囚われが広がり分裂していく。同時に様々な苦痛も生じていく。
その囚われの状態が、どーも心地良い感覚だとは限らないと気付いた時はもう遅かった。
そこから慌てて「無」に帰ろうとする魂もある。自己の囚われを少しずつ落とし、見つめ直し、囚われが少なくなるほど楽になる。無に近づく。完全に囚われが無くなった時、自我が無くなった時、「無」に至る。
そんな風に考えていくと、気が遠くなるが、先ほどの異次元での体験と言い、あらためて「囚われ」が生じる事でこの世界も生じているんだなと、同時に様々な苦しみも生じるんだなとすごく考えさせられたのだ。
おそらく私が入った次元は、幻でありながら非常にここち良さがあり、横からどこかの天界に繋がっている様な感じもあったので、アチラの世界の中でもそう言う比較的心地の良い次元だったんだろうとは思う。
臨死体験の中では、あの世は夢の中の様に不鮮明で寂しいと表現する人もいるが、アチラの世界も色んな波長の次元があり、やはり死後は、その時の心の状態によって、入り込む次元も変わってくるんじゃないだろうか。
鮮明感もその辺りで差が生じてくるのかもしれない。心の状態についてこれまでしつこく言ってきたのはこのためだ。
幸、不幸に、偶然も正解も間違いも無い。ただ自分の心の状態に左右されるだけだ。
ちなみに私は2つ前の前世では幕末で、ちょっと家族の事で疲れ気味で亡くなった。もっと自分のやるべき事に集中したかった様な感じだ。
で、一つ前の前世では、小さいうちに関東大震災で両親を亡くし、お寺に預けられた後、隠れて密教修行をしてた。波乱な人生だったが充実感もあった。戦後、亡くなる時は、庭で遊ぶ子供達を見ながら、家族ってイイよなぁみたいな気持ちで亡くなったので、今世ではまた普通の家族の元で生まれた。
この死ぬ時の思いと言うのは、非常に死後や来世に影響する様だ。
だから死ぬ時も出来るだけ後悔の無い、囚われの無い、満足感に満ちた状態にで死ぬ事が理想的だ。
死後も来世も、その心の状態で決まってしまう。全てがその心で生じている幻の世界でもあるからだ。
次の囚われ次元
私は以前ゲームなどの3DCGの仕事に関わっていた事があるのだが、この3Dの世界も私的にはすごく考えさせられる。
ネットの世界もそうだ。こう言った仮想空間的世界を見てると、この物質次元そのものも、元々は、こんな感じで興味から生じた世界だったのではないかと思わされる。
3DCGの世界はどんどんリアルになっており、現実とは区別のつかない映像も簡単に作れるようになってきている。そしてゲームの世界においても、この3DCGによって、あたかも本当に自分がその世界にいる様に体験できるゲームも増えている。
おそらくこの先、視覚的なものだけでなく触覚的なものも再現されるようになっていくと思う。つまりその3Dの世界でゲームを始めると、もう現実と区別がつかない様な体験が出来るようになっていくだろう。
こうなった時、怖いのは、多くの魂が次はこの3Dのゲームの世界の中に囚われる様になっていくんじゃないかと言う怖さだ。

困った事に、ゲームの中でのキャラクターはリセットできる、輪廻できるが、ゲームの中での人間関係に傷ついた心まではリセットできない。そのまま現実世界にフィードバックされてしまう。カルマが生じる。それを解消しようとまたゲームの中に戻る。カルマの浄化って感じだ。
既に何日も徹夜して突然死してしまうほど夢中になってしまう人もいるほどのゲームの世界。
最初はただのちょっとした興味だったはずなのに、どんどんその世界の中に囚われ、出れなくなっていく。
もしかするとこの我々の住んでる物質世界も、元々はそんな感じで生じた仮想空間だったのかもしれない。
しかし、この仮想空間の中で心が囚われる様になり身動きが取れなくなっていく。
余計な魂の傷を作るようになってしまい、しかたなくそれを浄化する為に何度もこの仮想空間でリセットする、輪廻を繰り返さなければならなくなる。
あくまで例え話しではあるが、それだけこの「囚われ」と言うものがやっかいでかつハマりやすいものなのか。考えさせられる。
現実においての応用
高次元の存在とのアクセス
ここで高次元の存在とのアクセスについて少し書く。くわしく書きたいのは山々だが、前回書いた様に、あまりにも高次元に化けた低次元の存在と知らず知らずにアクセスしてしまう人の方が多いので、このWEB版では、その注意事項のみ中心に書いておこうと思う。
・高次の存在と繋がる時の特徴
まず、特に守護神と言われるレベルの高次の存在は、普通は何らかの信仰や修行をしないと縁付かないと言われている。あるいは前世で修行しているか、何か多くの人々を救う様な事を成す等、それに伴って縁付く事が普通の様だ。
前世で既に縁付いている場合は、今世の自分の意識が、その前世レベルにまでシフトしてきた時に繋がりやすくなる。
高次の存在にも様々なレベルがあり、繋がる存在も今の自分の意識レベルに応じた存在が縁付くと言える。
これは繰り返し書いてきたように「似た要素が惹きあう」ためだ。
なので基本的にこの守護神レベルの存在が縁付く様な人は、守護神と縁付きたいと願って縁付くものではなく、修行や、何らかの人の為になる様な努力をする時に、それに力を貸す様な形で縁付くのが普通だ。
こう言った神仏は、一つの特色を持ったエネルギー波長だと考えればいい。
その波長に自分の波長が合った時に繋がる。
付け加えるなら、ほげほげの神様と言う存在が、一人の人間に付くわけではない。ほげほげの神さんと言う種類の波長がそこにあり、その波長に近くなった人達が、縁を通じてそのほげほげの神さんのエネルギーに繋がる感じだ。
だからその人自身の波長がさらにシフトすれば、繋がる神さんもシフトしていく。変わっていく。
逆に前世から縁ある神さんであっても、今世の自分の意識がその波長に合っていなかったら繋がる事は出来ない。何らかの気配は感じられても見えたりアクセスしたり出来ない。
その人自身の意識がシフトして波長が近くなると、思わぬ所で霊感の強い人などに「あなた、誰か守ってくれてる人がいるよね」と言われる様な事が起きたりして気付かされる。これが一つ目のサイン。
さらに波長が合ってくると、その存在が見える波長レベルの霊視出来る人とも縁付きやすくなるので「あなたは、ほげほげの神様がついてるね」と言われる様な事が起こる。その神様の名前を知る事が出来る。これがほぼ波長が一致した段階だ。
そこで、何故今、その守護神の名を自分が知る事が出来たのかを感じられると、自然と自分のやるべき事が見えてくる。それを行っていく事に守護神も力を貸してくれるわけだ。
ただ、ここでは一応、そんな自分を守ってくれる神さんがいたらいいなぁと思ってる人が多いと思うので、こう言う書き方をしたが、神さんも色々いるので分からないが、個人的には多分、神様について欲しいと願っている時点では、まだ縁付くのは難しいかもしれない。
自分の幸せの為でなく、多くの魂の幸せの為に出来る事は何なのかと、そう言う視点で物事を考えられる様になっていく事が、守護神と縁付いていく近道であると私は思う。
多分、そう言う風に考えられる様になってきた時に、自然と縁付いてくるものだろう。
あと余計な話ではあるが、守護神が付くと現世的な恋愛運や金銭運はあまり期待できないので、その辺りは覚悟した方がイイ。
・身近な願いをかなえる天使
天使は、守護神とちょっと違い、結構庶民的だ。こちらから興味を持つ事で繋がりやすくなる。
この違いは、何なのかと考えたのだが、おそらく天使達も人間達の意識がシフトしていく事を願ってはいるのは神々と同じなのだが、中でも天使達は、人間達の個人的なサポートに力を入れてる感じだ。
自分達、天使と言う存在を信じてもらう事だけでも大切な事の様に考えてる様で、結構身近な願い事、多少利己的であっても、叶えてくれやすい所がある。
なので「ああ自分を守ってくれる存在がいたらなぁ」と思う様な人や、恋愛や金銭運と言った現世的ご利益に期待したい人は、神々よりも天使達にお願い事をした方が早いかも知れない。
天使は特に人に何か心理面で良い気付きが起こった時に現れやすい。
「ああ、今ならあの人を許せるかもしれない。あの人を許そう。」そんな風に気持ちを切り替えられた時、フワッと暖かい気持ちになる。そんな時は、たいがい天使が近くに来ている。
・疑いの目は忘れない
他にも色んな高次の存在はいるのだが、メジャーな所で言えば龍神さんなんかは、農作業であるとか、建築であるとか、土地がらみの仕事関係の人に力を貸してる事が多い。
子供に絡む様な所では、ひっそりとお地蔵さんが修行を兼ねて見守っていたりする。
もちろん自分に縁あるご先祖さんや守護霊、指導霊もいる。
しかし、そう言った神々や天使、その他の高次の存在も含め、たとえ縁付いたとしても、決して依存する様な形になってはいけない。疑いの目は常に持つと言う事は忘れてはいけない。
私自身、現在アクセスしてる守護神や存在についてWEB上で、ほとんど書かないのは、それの真似をして近付く高次に化けた動物霊と繋がってしまう人も出かねない危険性と同時に、私自身が信用しきらず依存せず客観的に状況を感じる目を失わない様にしている為だ。
いつでもその存在が「偽物でした」なんて事になっても、それを素直に受け入れられる自分を保つために、興味自体持たない様にしている。
ただ、今の自分がここにいる事が、高次の存在達によってもたらされているものとして「感謝する」ことは大切なので、「私に縁ある高次の存在」というくくりでの感謝の祈りは続けている。それ以外の期待もお願いも何もしない。
何だか高次の存在に対して疑いの目を向ける事は失礼な様だが、本当に高次の存在なら、そんな事ぐらいは理解してくれるものだ。それで罰をあててくる様な神さんだったら、そう言う嫌悪も残っているレベルの神さんだったと言うだけの事だ。
前回お話ししたように、高次の存在と繋がっていても、割り込む形で低次の存在と入れ替わる時がある。
そのタイミングの多くが、その人自身の心が弱ってる時だ。「もう神様なんて信じられない」なんて気持ちになった時、「大丈夫、こっちにおいで」と優しく声をかけてくるのが低次の存在だ。
高次の存在は、そんな時でも、ただ見守っているだけだ。サポートが出来ないのだ。
ある意味冷たく感じるかもしれないが、そもそも何度も書く様に苦しみのほとんどは心が嫌悪や孤独、不安に「囚われる」状態の時に起こる。
つまり、神様と繋がりやすい波長から外れている状態だ。
そんな状態の時に、神様もその人を助けようと思ったら嫌悪や孤独、不安に「囚われる」状態にまで人間に合わせて自分の波長を下げなければアクセス出来ない。
仮にそこまで波長を下げたら、神様は神様でいられなくなる。人間に転生してしまうだろう。
ちょうど、人間に恋して堕ちてくる天使の「あちゃ~」状態だ。
でも、例えばそんな苦しい状態になっても、「これは試練だ」と「きっともっと頑張ればうまくいく」と、心だけは前向きで、成功を信じる事が出来ていたら、神様も比較的アクセスしやすいので、何らかの解決策のサインを送ってくれる。
なので高次の存在との繋がりを確かなものにしておきたいなら、自分の心の状態もしっかりとイイ状態で保たなければならない事を忘れないで欲しい。
・そこまで感じる事が出来ない場合
じゃあ、そこまで感じる事も出来ない場合どうすればいいのか。頑張ってもどうせ見えないんだし、感じられないしって思うかもしれないが、高次と繋がった時は必ずサインがある。そのサインに気付けるだけでも十分幸せな事だ。
そのサインを信じて嫌悪や孤独、不安に陥ることなく現実生活を送っていれば、意識がシフトしていけば、またサインが来るものだ。
どう言う存在かはどうであれ、誰でも必ず守り導こうとしている存在はいるものだ。そう言ったサインを感じられたら、ちょっと寝る前に感謝しておくとイイ。
「私の守護霊様」「ご先祖様」「私に縁ある高次の存在様」などのくくりで感謝しておけば大丈夫。
ただ、縁があるかどうかも分からないうちから特定の神仏の名を呼ぶのは気をつけた方がイイ。
私は「ふがふが菩薩様」が好きだからお願いしてこうと「ふがふが菩薩様、○○なりますように」と、その菩薩が祀られている場所での御祈りならまだ分かるが、自宅でそんな風に呼び出す様な形でお祈りするのは、もし仮に「こんにちは、ふがふが菩薩です」と現れたりしたら困る。
そんな形で登場するのは、たいがい「ふがふが菩薩」に化けた狸であったり狐であったりするからだ。
自分に縁付く神仏と言うのは波長の合う神仏だ。通常はこちらで決めれるものではない。
功徳
最後に、徳、功徳についての話になる。この功徳と言うのもカルマ同様、仏教用語であるだけに、どうやってそう言う宗教的解釈に偏らず、一般の人に理解しやすい解釈で説明できるかという点で、ちょっと迷ってた部分がある。講座の中では具体例で説明して理解してもらってはいるが、ネット上では安易にあげにくい例もありWEB版では省略するつもりだったが、ちょっと思いなおして書いてみる事にした。
これまでの回では善業については、簡単に「悪業と同様に、潜在意識において、その善い行いをした事に、集中が起こり、似た善い事象を引き寄せる」と言う説明をした。これは本当は「善い行いをすれば、その相手の感謝のエネルギーが自分に伝わり自分自身の徳のエネルギーとなる」と説明すればもっと分かりやすく、かつ受け入れやすかったとは思う。
ただ、感謝されないと善い行いはする価値が無いのかと誤解釈する人もいるかと思い、とりあえずその時点ではそう言う表現はしなかった。これは1+1=2の様な理論的解釈の出来るものではない。
感謝されると、ちょっと気分がフワッと良くなる様な、うれしい感覚を味わう事はあるだろう。 確かにあれは、自分も相手も心から嬉しくなり、その場のエネルギーがフワッと上昇する。単純に自分が「楽しむ」と言う時の気分良さとはちょっと違う。この違いも結構重要だったりする。

「楽しむ」には、その背後に「不安」が生じやすい。この楽しさがいつまで続くんだろうと言う不安や、物事にもよるが、単に欲求を満たす時の、自分だけが楽しんでいてイイのだろうかと言う罪悪感など。エネルギーの上昇に、ブレーキをかける余計なものがくっ付いてしまう状態だ。
しかし本当に「良い事」をした時の心地良さには、その背後に余計な不安が一切生じない。直接、感謝されるのももちろんうれしいが、その行為を誰も見ていないとしても、神様はそれを見て喜んでくれているかもしれないと、そんな風にさえ感じる様な心地良さがある。
この時、その行為によって、誰かが助けられる様な物事なら、その感謝のエネルギーは潜在意識の深い部分を通してしっかり伝わってくるものでもあると考えればよいが、例えば誰も気付かない所で掃除をするとか、そう言った場合どうだろう。
気付かれなくても、そこを使う人がふと心地良いと感じてもらえたら自然と、その心地良い感覚のエネルギーは、掃除をした人に伝わると考えればいいだろう。
それらの充実感が、そのまま徳となっていくと考えるとイイ。
また、もう一つ付け加えておくと、徳は、よい意味でも悪い意味でも、その感謝される分野にさらに縁付くと言う事も覚えておいてもらいたい。
例えば友人の借金を肩代わりした場合、その「肩代わり」と「友人」と「借金」と言う事象に縁が深くなる。お金を貸す時に、そこに潜在レベルで集中が起こるからだ。その部分は覚えておいた方がイイ。
うつわ
ここで、もう少し「うつわ」と言うものと合わせて考えてみる。
多くの人間は、知らず知らずに善業も悪業も積みながら生きているものだ。他の生命の命を奪わなければ生きていけないと言うのも、人間界がそう言う領域であることを示している。
その傍ら、色んな職業を通じて互いを助け合っているのも事実。お客に商品を提供し喜んでもらう事も自然と徳になっている。母親が家族の為に家事に追われる毎日も立派に徳を積み続けている事になる。お金の流通とは別に徳も流通している様な感じだろうか。それによって色んなイイ事や幸せも引き寄せられる。
しかし残念ながら徳は目に見えないので、自然と積んでいるにもかかわらず、人と比べて不満に思う人もいる。
例えば会社内でムチャクチャ給料の安いデザイナーがいたとする。一見給料が安いんだから、損している様に見える。しかしそのデザイナーがデザインした商品がヒットし、その売り上げで会社全体が大きくなれば、沢山の社員の気持ちが上昇する。潜在意識の深い部分では、多くの社員がその状況に感謝する。その感謝のエネルギーは、ちゃんとデザイナーに伝わっているものなのだ。
それがそのデザイナーの徳として積まれる。その結果、表面上給料は安くても、別口で臨時収入があるとか、転職するとさらにデザインの分野でイイ縁が繋がる等、ちゃんと還元されるわけだ。
もしそのデザイナーが給料安さに不満を抱えて愚痴ったりで、ついつい悪業を積んでいたら、徳はそこに消費され、イイ事も起こりにくくなったりするだろう。
別に感謝はされなくても、給料が安くても、ちゃんと感謝のエネルギーは受け取れているものなので、そこに囚われずにどんどん人の為になる事をしていく事が、結果的に自分の幸せ、運気の上昇に繋がっていくものなのだ。
さらに徳を効率よく積むコツもある。それは「沢山の人に良い影響を与える人や物事」に関わる事だ。
沢山の人に良い影響を与える人と言うのは、それだけうつわが大きい。「うつわ」と言うのは徳を貯める皿の様なもので、うつわが大きいと徳も沢山積めるが、うつわが小さいと徳を積んでもあふれこぼれて、なかなか沢山貯めれない。
なので、うつわの大きい人のそばで働くと、自然と徳も積みやすい。もちろんある程度自分のうつわも大きくしておかないと縁そのものが繋がってこないと言う部分もあるが。
器を大きくすると言うのは、一言で言えば目先の幸せより、沢山の魂の幸せに繋がる事に意識を向けられる様になる事とでも言おうか。
だから政治家も、国民に感謝されるだけの良い政治が出来ると、かなりの徳が積めるし、悪い政治になると、その転落も半端なものでは済まされない。何億と言う人の感謝の念を受け取るか、苦しみの念を受け取るか考えれば想像しやすい。
ちなみに様々な自己啓発のワークや、引き寄せがうまくいかないと言う人は、浄化編のブレーキ要素を探すのも大切だが、上記の様に徳を積む事によっても、それがさらに良い事を引き寄せるエネルギーにもなるので、そこを意識しておくのもコツになる。
おわりに・・
今回でWEB版のエリアシフトは終了だ。ここまで読んでいただいた貴方への感謝と共に、幸せになって頂く為に、もう一言だけ最後に付け加えておく。
人の苦しみに重い軽いは存在しない。あの人に比べて私の方が幸せだとか不幸だとか、ついつい考えてしまいやすいものだが、幸も不幸も自分の価値観が決めているものなのだ。
同じ様に怪我をした人がいるとし、Aさんは「なんで自分はこんな怪我をしたんだ!苦しい!」と感じる。しかしBさんは「ああ、軽い怪我で済んで良かった。命があるだけでも幸せだ。」と感じる。
人の人生はこの捉え方の積み重ねで決まると言っても過言ではない。
つまりAさんとBさんが全く同じ人生を歩んだとしても、何でも苦しいと捉えるAさんは死ぬ直前も苦しい人生だったと考えるだろう。何でも幸せだと感じるBさんは死ぬ直前も幸せな人生だったと感じるだろう。
同じ人生なのに物事の捉え方で人生が変わるワケだ。
もちろんこれまでの話から言えば、自分を不幸だと考えるAさんは、幼少期や前世において不幸の原因を抱えていると捉える事も出来るが、じゃあ、そもそも何でそんな運命になったのかと言えば、繰り返される前世の中で、何度も自分を苦しいと考える事を繰り返してきた積み重ねだとも言える。
そこから脱却するには、まず苦しみを浄化だと捉えて、みじめな気持は出来るだけ言葉で吐き出し、そこに囚われず、幸せを見つけられる自分を作っていく事だ。
嫌な事が起こった時は、それをいくつあるか数えておく。次にその数以上の良かった事を数えてみるとイイ。
意外と良かった事の方が沢山見つかるものなのだ。
生きている事はもちろん、今この記事を読んでる事も、よかった事に加えて頂けると幸いだ。
人はついつい苦しい事の方に意識が向きやすい。そこに囚われて余計に苦しくなりやすい。
だが苦しみは、取り除くものではない。
自分で手放していくものだと言う事に気付いて欲しい。

