WEBエリアシフト 3-不安の浄化
グループワークで行っている「エリアシフトワーク」がどう言ったものなのか、また京都は遠くて受けれないと言う方の為に、その内容の一部を紹介していきます。ネット上で公開できるのには限度もありますが、それでも読むだけでも色々気付かれる事もあると思います。
*以下は別サイト「ゆらとふるへ」で公開している記事と同じものです。
不安の検証
浄化編の最後は「不安の領域」だ。不安の領域は、嫌悪感や孤独感と言った感情的なものを無理に抑え込んでしまい、情報的なものに置き換えてしまっている状態の領域だ。一見沢山の知識や論理性のある情報にあふれ何も問題ないように見えるのだが、それは不安な感情を情報で覆い隠している状態の為、その情報が不足すると急激に不安にとらわれてしまう。何か将来への漠然とした不安に覆われており、必要以上に物事に囚われ、執着してしまっている状態。
会社の同僚や、友人達と遊んだり飲みに行ったりするのが好きな人は沢山いるだろう。それでストレスが発散されて、爽やかな気分で翌日を過ごせるならイイ。しかし時には二次会、三次会と、もう延々と飲みたくなる。朝まで飲んで家に帰ると異様に寂しくなってしまう様な事はないだろうか。
例えば、友達と電話で話すと何時間にも及んでしまう。機関銃のように喋っても喋っても話し足りない。
家に帰るとテレビは付けっぱなし。電気を消すと不安で眠れない。その不安をかき消そうと色んな情報に夢中になる。ゲームを始めると幾晩も徹夜になる。
使うかどうかも分からないのに新商品が出る度に欲しくなる。物やお金に必要以上に囚われる。
損はしたくないと本や、インターネットから大量の情報を懸命に得る。知識や拘りはどんどん増えるが心は楽にならない。情報が大量すぎて何が正しくて何が間違っているのかさえわからなくなってくる。
なんとか自分を変えたいと考え色んな習い事を始めるが続かない。自己啓発関連の講座に出ても効果が出ない感じられない。すぐに飽きてしまう。
時には占いや霊能者にハマってしまう。何十万もつぎ込んでしまう。でもその時その時は少し楽になれても、それで人生そのものが大きく変わった事は一度もない。一体自分は何をやってるんだろうと、ふと何だか妙に寂しい気持ちに囚われてしまい、どうしょうもなくなる。これらが不安の領域に偏っている状態だ。
多くの場合は、嫌悪感や孤独感、そしてこの漠然とした不安感が複合した状態のまま生きている。
特にこの不安感は、嫌悪や孤独ほどハッキリしたものではなく、心の隅で常にさざ波のようにざわざわと動いており気持ちを刺激してくる。そんなものを感じる事は誰にでもあるとは思うが、これが気付かない所で色んな物に対する囚われ、執着に繋がり余計な苦しみをさらに生じてしまうのだ。
物質的なもの、ブランド、衝動買い、習いごと、遊び、煙草や酒、一見何も問題の無い様なものも、そこに囚われ過剰に執着すると買っても買っても満足できない、マニアと言えば聞こえはいいが、それで本人が満足する事は永久にない。時には物ではなく特定の人に依存してしまう事もある。依存が執着と化してストーカーの様になってしまう事もある。宗教から抜けれなくなる事もある。これら執着は心の隅にある不安感がその気持ちを刺激してくる事によって囚われる。執着する事で不安感を感じない様にムリをしているだけなのだ。
今の自分が間違っているかもしれないと考えるのが怖くて、何か違和感を感じながらも、その不安を感じない様に懸命に今の自分が正しいと、それを裏付けする情報を常に取り入れ続けているだけかもしれないのだ。
その為に人はなかなか変われない。
嫌悪や孤独の回でピンとこない、でも何か違和感がある。スッキリしない。そんな場合、自分が絶対に正しいと思い込んでいる部分に、意外な原因が隠れているかもしれない。それを自分で否定する事に怖さがあるから、心の隅で不安が波打ってるのかもしれない。
では、前置きはそのぐらいにして、例のごとく以下のスクリプトに挑戦してみよう。
不安の領域の特徴
情報への執着
先ほどのスクリプトで、欲しいもの、手に入れたいものが、本当に自分にとって必要なものかどうかは疑問だというものもいくつかあっただろう。別にそれが無くても生きていける、困らない、と言ったものは沢山あるはずだ。
じゃあ、なぜそれらが欲しくなるのかは、その裏にある様々な「不安」に原因がある。
不安は、これから何が起こるか分からない為に心が揺れ動いて安定しない落ち着かない状態と言える。
しかし何が起こるわけでも無いのに、必要以上に不安感が沸いてきて、必要以上の行動を取るようになる事がある。最初に書いたような状態がそれだ。何か大量に情報を得る事で不安感を麻痺させようとする状態だ。
「○○を手に入れたい」と感じる時、それさえ手に入れば全ての問題が解決するように感じてしまう。しかし、いざ手に入れて自分のものにしてしまうと、手に入れたという一時的な満足感は得られるが、それで全ての問題が解決したかと考え直すと、あらたに別のものが必要に感じられてきたりする。じゃあ、その別のものを手に入れれば満足できるのかと言うと、またさらに別のものが欲しくなる。これを繰り返し気が付くと家の中は似たようなものだらけ。いつしか「コレクター」になる。いつの間にかコレクションする事自体が目的となる。
それはこの社会においては別に何も悪いことではない。むしろ人からは「すごい」と評価される事もあるだろう。
ただ、問題となるのは、それによって生活や他の面に支障が出てくる場合だ。コレクションするにもお金がかかる、借金してでもそれにこだわる人もいる。それで家族にあきれられて離婚する人もいるかもしれない。過剰になって盗みに走る人もいるかもしれない。物ならまだしも人に囚われてストーカーの様になる人、もうその人がいなくなったら自分は生きていけないと思いこんでしまう人もいるだろう。自分の中の不安の原因が、その相手にあると錯覚している状態だ。
何故そこまで不安に煽られなければならないのか、その不安はどこから生じるのか。
またかと思われるかもしれないが、基本的にこの浄化編のテーマが、そこにあるんだから仕方がない。やはり根本的な原因は幼少期の満たされなかった気持ちに深く関係している事が多い。
この不安の領域は、嫌悪や孤独の領域と重なっているとも言える。嫌悪や孤独の状態まで至らない、あるいは嫌悪や孤独を抑え込んでいる状態が不安の領域とも言える。
ただ、この不安の領域を嫌悪や孤独とは別の領域として区別しているのは、「外的な情報に置き換える」と言う部分が特徴的であり、ちょっと嫌悪や孤独とは区別しないと分かりにくい部分だからだ。
嫌悪は「親に理解されていない」「自分の気持ちを分かってほしい」といった気持ちが嫌悪感となって他人に向けられる。極度になると外に攻撃性が向く状態だ。
孤独は「親に愛されていない」「愛されたい」といった気持ちが孤独感となって、他人への執着、あるいは愛されない事への恐怖からの自殺願望と言った形に向けられる。極度になると内に攻撃性が向く状態だ。
不安の領域は、そこまで感情が明確ではなく漠然としている。幼い頃なんとなく感じていた不安。その不安をかき消すようにゲームやテレビ、ネットなどの情報に夢中になる。色んな情報に感情を預ける事で、その不安を感じない様にしている。攻撃性が出るほどまでには至らない、あるいは攻撃性そのものを抑え込んでる状態だ。
情報は潜在意識と顕在意識との間にどんどん溜まっていく。前回お話ししたいわゆる「情報の壁」が厚く出来上がっていくワケだ。多くの人はこの情報の壁の中で物事を判断する。
何かに迷った時、どう行動するのが正しいのか、間違っているのか。まずは本やテレビ、ネットから情報を得ようとする。それが何とかの教授だとか、どこそこの学者さんだとか、肩書きがあると、そこに囚われ信じてしまう。
しかしそんな偉い学者さんは沢山おり、沢山の情報を得れば得るほど、学者さんによって言う事も違うから余計に分からなくなる。
占いや霊能者に頼る時も、占い師によって言う事が違ったりすると余計に迷う。とりあえず「よく当たる」と噂される人を選ぶ。当たってそれで問題解決すれば、その時はいいが、問題が生じる度に頼らなければならないので、そもそも何故その問題が生じるのかに気付かない限り不安感は消えない。いつの間にか依存状態になってしまう。

これらはどれも「情報の壁」の中の「情報」に振り回されている状態だ。迷いを情報だけで解決しようとすると、余計に迷いやすい。本当の答えは、その人自身すでに知っている。潜在意識にすでにその答えはあるものだ。
情報の壁に引っかからずに、その深い部分にある答えを自分で感じて引き出せるようになると迷いは生じなくなる。
こう書くと多くの人は「それは何となくわかる」「聞いた事はある」「理屈はわかる」と考える。
しかしそう「頭で考える」事自体が、情報の壁の中で考えている事に気付いていく事が、不安の浄化のまず最初の一歩にもなってくる。
感情が出せなくなる
情報の壁が厚いと、怒りをぶつけたり、寂しくて泣いたり、そんな感情を出すこと自体難しくなってしまう。自分の気持ちがうまく表現できなくなりやすい。
幼い頃、「お行儀が悪い!」とか「男がメソメソ泣くものじゃない!」とか、特に日本は感情を出す事が良くない事的な形で育てられる為に、感情があまり豊かではない。これも「大人げない」とか「男は泣いてはいけない」と言った情報を過信して感情を抑え込んでいる形だ。この感情を抑え込む癖が付いてしまっている為に、ストレスが溜まりやすかったりする。こればっかりは常識的な価値観が根付いてしまっている為に難しいところでもある。
いきなり社長がワンワン泣き出したら社員は不安になるだろう。でも本当は男であろうと社長であろうとワンワン泣いた方がスッキリする。楽になる。かと言って怒りについては、嫌悪でも書いたように、ただ怒るだけでは本当の感情の解放にはつながらない。本当の意味でストレス解消には繋がらない。その裏にあるつらさみじめさ、理解されたいという気持ちを言葉に出来て初めてスッキリする。
海外では感情的にならない日本人が評価される事もあるが、正直個人的には違和感を感じる。かと言ってどこかの国の様に怒りや不満を露わにして騒ぐのも、これまた違和感を感じる。嫌悪や孤独の回でも書いたように、怒りや不満をぶつける事でも我慢する事でも楽にはならない。その裏にある辛さ悲しさの気持ちを素直に言葉にして吐き出す事で初めて楽になる。
日曜日のサザエさんのエンディングを聞くと、何だか寂しくなる、明日からまた学校だ、仕事だと考えると辛くなる。
それは、自分の心の深い部分で波打っている感情が、その不安が、いったい何なのか。それをしっかり言葉にして吐き出す機会がないから、不安でありつづけているだけなのだ。
論理的に考えてしまう
情報の壁が厚くなると、何でも論理的に考えようとする。「情報の壁」に溜まっている情報を元に判断しようとする。
しかし言葉には限界がある。そこに共通の真実を見出そうとする所に無理がある。いくら論争した所で、全ての人間が納得できる様な答えを出す事には無理がある。なぜなら我々が真実と考えるものは、それを真実と判断する基準自体が真実かどうかも、本当の意味で誰にも分からないからだ。
言ってしまえば、どんな理論も定義も、正しいのか間違っているのかと懸命に考える事自体ナンセンスだ。正しいか間違っているかは、それを考える人それぞれが正しいと感じるか間違っていると感じるかであり、わざわざ万人にとっての正解を確定づける事自体、それを表現する言葉自体に限界があるのだから難しい。
もちろんこう書いているこの文章の言葉そのものにも意味はない。ただその言葉からあなた自身が自分の中で何を感じ何に気付くかに意味がある。
何だかこう書いてて私自身何を書いているのかよく分からなくなってきたが、ちなみにここでの記事もあえて出来るだけ理論的に理解できるように書いているつもりではある。
それはこういった記事を一生懸命読んで理解しようとする人ほど、この「情報の壁」の中でぐるぐる論理的に考えようとして迷い込んでしまいやすい。だからその理論的な部分を理論的に崩していくしかないから、イヤイヤしかたなく理論的に書いてるだけだ。
本当は「考えるな!感じろ!」と一言で済ませられるものなら済ませたい所だ。だが、それだけで通じる人なら最初から悩む事もないだろう。
例えば論理的に考えると、こんな間違いも起こしやすい。
「自信が持てない」と言った自分の性格がいやで悩んでる人がいるとする。何故だろうと懸命に心理関係の本を読み、幼少期に原因があるのかもと考える。でも自分の両親は、しっかりしたイイ親だったし、まず親に原因があるとは思えない。親子関係には問題はないはずだと考える。
ただ小さい頃、隣のオジサンが怖い人だったから、その人によく怒られたのが原因じゃないかと。そのオジサンが怖かったから、それで自分は自信が持てなくなったんじゃないかと考える。
多少心理関係の本を読んでる人なら、そんな風に自分で苦しみの原因を想定出来るかもしれない。
しかし、そんな人が実際にヒプノで原因となる場面にさかのぼると、そのオジサンに怒られた事よりも、その頃、母親が仕事でいない事に対する寂しさの方が、実は自信の持てない大きな原因だったと、気付いたりする事が多いのだ。
だから自分の様々な心の引っかかりの原因は、頭で考えても情報で迷わされやすい。
考えるのではなく感じるのだ。隣のオジサンに怒られた場面の事を繰り返し思い出して、その時の自分の気持ちをあらためてよく感じてみる。そうすると「オジサンが怖い」と言う気持より「お母さん助けて!」と言う気持ちの方が大きい事に気付けたりするのだ。
心は理論で作られているわけではない。感じる事そのものが心だと言えばイメージに近いだろう。
なので最終的には自分の苦しみは、自分で感じて、自分で浄化していくしかない。ここで書いてる色んな浄化事例も、その通りにすれば自分もそうなるというものではない。ここで書いている記事はあくまで、その為の起爆剤でありヒントでしかなりえない。
解決方法が外にあると考えてしまう為に、すでに何度もその問題を来世に持ち越してしまっているのだ。
自分の魂を救えるのは自分の魂でしかない。自分の中で何が引っかかっており、何に囚われ何に苦しんでいるのか、それに気付き浄化できるのは自分自身だけだ。自分で感じて自分で気付いて自分で自分を変えていくしかない。
原因が今の状況にあるという錯覚
世の中、自殺する人が非常に増えている。その自殺の原因は様々だ。会社で仕事がうまくいかない、家族とうまくいかない、生活がうまくいかない、逃げ道がもうない。そんなきっかけで自殺を決意する。
あらゆる犯罪もそうだ、カッとなった、許せなかった、失敗した、つい出来心だった。なんらかのきっかけがあって犯罪に走る。警察の調書では、こう言ったきっかけが事件の原因、動機として全ての様に書かれて片付けられる。
しかし実際は、こう言った原因は、本当にただの「きっかけ」に過ぎず、本当の意味での原因ではない。そこに至るまでには、本人にも気づけない潜在的な「不安」が長い時間をかけて積み重なって成り立つ現象と言える。
何故自殺したいのかと聞くと、多くは今の状況が耐えられない、苦しい、と言った答えが返ってくるだろう。
会社が嫌なら辞めればいい、いや今の時代、転職先が見つからない、そんなものは探してみないとわからない、いや絶対に見つからない、もう死ぬしかないと。客観的にそこだけの話を聞いてると、何故そこに囚われるんだろう?と、自らその状況を望んでるとしか思えないぐらい、その部分でぐるぐる回って苦しんでしまっていたりする。
しかし話を深めていくと、ほとんどの人が、子供の頃の親子関係においても苦しんでいる事が見えてくる。その子供の頃の苦しさを、今の現状に無意識に投影してしまい動けなくなっている状態だったりするのだ。
それではいくら今の状況が変わってもまたすぐ苦しくなる。苦しさの原因が今の状況にあるのではなく、過去の自分の気持ちの中にあるのだから、過去の自分の気持ちを解放しないと苦しさは変わらない。
小さい頃から徐々に膨らむフーセンが大きくなりすぎて針に当って弾けてしまう。
多くの人はその「針」が原因だと言う。あるいはその針に耐えられなかったフーセンの強度が原因だと言うだろう。
しかし原因はそこではない、そのフーセンが何故膨らみ続けるのか、何故必要以上に空気が入るのか、何故空気が抜けないのかが問題なのだ。
不安がなぜ生じるのか
情報で感情を抑え込む

では、あらためて潜在意識の図を見てほしい。前回、孤独の浄化で「情報の壁」について説明した。この「情報の壁」が「不安」の重要なキーになる。
例えば、子供の頃、両親がいつも喧嘩していたとする。それが怖くて隣の部屋に隠れてる。自分も当り散らされたらどうしよう。まさかもし喧嘩が大きくなって両親が離婚でもしたら、自分はどうなるんだろうと考える。ここで生じる不安は立派な「原因のわかる不安」だ。自分が傷つけられるかもしれない、自分が生きていけるかどうかも危ういかもしれないわけだから当然恐怖を感じる。不安でたまらない。
幼少の頃は、「情報の壁」がまだ出来上がっていない。その為、こういった恐怖を感じる出来事があると潜在意識がとても傷ついてしまいやすい。
こうして潜在意識に出来てしまった「恐怖の傷」は、そのまま残り、10歳前後で「情報の壁」が作られていき、そのうち忘れてしまう。
「情報の壁」は、大人から教えられる沢山の常識や、テレビやネット、ゲーム等で入ってくる大量の情報、そして体験による経験で積み重なっていく。
しかし大人になってから、その子供の頃の傷が疼く。潜在意識は常にそういった傷があると何とか浄化しようと動いており、顕在意識に向かって信号を送ってくる、この傷を何とかしてくれと。顕在意識の方は、そんな事すっかり忘れており信号だけをキャッチして漠然とした不安に繋がったりしてくるのだ。
その不安の原因である子供の頃の「恐怖の傷」は、すぐには思い出せない。「情報の壁」が遮っているためだ。「情報の壁」が厚いほど論理的に考えようとする。この不安は、ちょっと風邪気味だからだとか、今将来の事が固まってないからだとか。「情報の壁」にある大量の「情報」によって過去の「恐怖」を「恐怖」ではないと言う「情報」に無理に置き換えてしまっている為、恐怖は完全には消えずに「不安」として残ってしまうのだ。
さらに、その不安をかき消そうと、時にはゲームに夢中になってしまったり、本やネット、物など、様々な情報を取り入れようとする。これは言い方を変えればさらに「情報の壁」を厚くしていってるようなもので、余計に迷いが生じやすくなったりする。本当の意味で「不安」が無くなるわけではないのだ。
「情報」で麻痺して、とりあえず一時的に「不安」を感じずに済んだとしても、例えば誰かの喧嘩を見た時、怒鳴り声を聞いた時、大きな音を聞いた時、ビクっとする。自分でもなんでこんなにビクビクするのかわからない。でも誰かが騒ぐと何だかとても不安になる。そんな形で幼い頃の「恐怖の傷」が刺激され「不安」が突出してしまったりするのだ。
不安の発生要因例
・幼少期からの情報依存
幼少期のつらい満たされない思いは、潜在意識に残りやすい。そんな思いは様々な情報に夢中になる事で懸命に忘れようとする。そうやって吐き出したかった感情が気が付くと漠然とした鈍い不安感に置き換えられてしまう。情報を取りれれば取り入れるほど、不安感は鈍るような錯覚を覚え、余計に大量の情報を取り入れていく事から離れられなくなる。
例えば小さい頃、親の帰りが遅く、待ってる間テレビに夢中になる。自分ではテレビが面白いから夢中になってるつもりでも、本当は親の帰りが遅い事に対する不安感を掻き消す為に夢中になっているだけなのかもしれない。
それが大人になっても何か不安になるとすぐにゲームを始める。小さい頃の様に不安が大きくなるのが怖くて夢中になる。やめられなくなる。
じゃあ、幼いうちはテレビやゲームをさせなければいいのだと、直球で受け止めないで欲しい。メディア情報に問題があるのでなく、子供が不安を感じる状況の中にいる事が問題なのだ。
子供は親に育てられている状態であり、自分ひとりで生きていく力がない。だから小さいうちは、親が自分を守ってくれると言う安心感が常に必要なのだ。
・満たされなかった思い
幼い頃、欲しいものが、親から与えてもらえなかった。何か満たされなかった。そんな思いが引っかかっていると、大人になって、どれだけ優しくされても贅沢出来たとしても、どこか満たされなかったりする。それは幼い頃の自分の思いが満たされない限り、今においても満たされる事がないのだ。
じゃあ、親の立場で考えれば、子供には贅沢させた方がイイのかと。それがまた一言ではそうとは言えない。
例えば、その子は欲しい玩具があった。子が親に「買って欲しい」とねだる。この場合、親は買うべきか、買わぬべきか。
これは別に買うべきか買わぬべきかが問題ではない。子供や親がその場面で今何をどう感じているのかが問題だ。
例えば親自身が「うちは貧しいから、そんな余裕はない!」と、「満たされない気持ち」で買う事を断った場合、子供も満たされない気持ちになるのは、わかるだろう。
かと言って親が「うちは貧しくても、子供には贅沢させてあげたい」と言った気持ちで買った場合、これで子供が満たされるかと言うと、そうとも限らない。子供もそこに「親のつらさ」をキャッチしてしまう。買ってもらう事に抵抗を感じて遠慮してしまう。感情を抑え込んでしまう。結局満たされない思いを残してしまうのだ。
じゃあ、結局どうすればいいのだ。
孤独の回でも書いたが、買うべきか買わぬべきかではなく、まず本当の意味で「親の気持ちも楽である事」が大切なのだ。愛の向け方ではなく本当にその子供に対して愛を向けられるだけの余裕を親自身が持っていれば何も問題は無い。親自身も子供と一緒に楽な気持ちでいられたら、自然と子供も楽な気持ちになっていけるものなのだ。
じゃあ、この楽な状態と言うのは、どう言う状態なのか。テレビ見て寝転がって寛ぐ事を楽な状態だとは思わないで欲しい。心の深い部分が楽な状態だ。
なんだか哲学的な言葉で誤魔化して適当な事を書いてるようだが、これまでの記事を読んでもらえていれば分かる事だと思う。
親は自分自身の満たされない思いや、幼い頃の満たされなかった思いを気付かずに子供に背負わせてしまったりしやすい。だから、まず親自身が楽になる事、浄化される事が大切になってくるのだ。
浄化部分は嫌悪、孤独、不安と3回に分けてはいるが、浄化編全体を通して、自分で幼少期の満たされなかった思いと向き合い、そんな思いがあれば言葉にして吐き出していく、そうやって引っかかりの要素を排除し本来の本当の自分自身を取り戻して、まず自分が楽になっていく事が理想なのだ。
子供がどうこうと考える前にまず自分が子供だった頃、どんな気持ちだったか思い出して感じてみる。
自分が親にどうされた事が嬉しかったか、あるいはつらかったか、どんな気持ちだったか。そしてどうして欲しかったか。
そう感じていくと、自分が嬉しかった場面では、親も嬉しかっただろう事に気付く。
自分が不安に感じていた場面では、親も不安だった事に気付く。そうやって自分の思い出が形成されている事に気付けると、自分の子供への接し方も自然と見えてくるのではないだろうか。
・親のカルマの影響
ここからちょっとスピ系の話になる。先ほどの自分自身の幼少期を癒す様に、自分の子供を可愛がってしまうケースで、エネルギー的な問題面もある。
例えば人の深刻な話を聞いていると気持ちが重くなる事があるだろう。悩みを聞かされてこっちまでしんどくなってしまう。これはカウンセリングの分野においては、相手のしんどい話が、自分自身のしんどい話とリンクし刺激されて、こちらもしんどくなると説明される。
しかしスピリチュアル的な視点で見れば、やはりエネルギー的な影響も受けているのが分かる。
重い話には、やはり知らず知らずに重いエネルギーをもらってしまう為に、こちらもしんどくなる。
もちろん自分自身の過去においても似た事象があった場合、その分こちらも相手の話に集中してしまう為に、余計にそう言ったエネルギーと繋がりやすくしんどくなったりする。
これが、友人知人同士のレベルなら一時的な状態で済むかもしれない。しかし親子関係の場合これがどうなるか。
ヒプノの場合、問題の原因をクライアントの過去から探る時、なぜか「クライアントの親」の過去から原因が見つかる事がある。
例えば、彼に対する異常なまでの嫉妬心があった場合。なぜそこまで彼に嫉妬するのか。幼少期に弟妹に対する嫉妬心を彼に投影していたと言う原因が見つかるケースもあれば、前世において同じ様な恋愛で彼に嫉妬していたケース。そしてたまに、クライアント自身でなく、クライアントの母親が若い頃、旦那さん、つまりクライアントの父親に対して嫉妬していた事が原因として出てくる事がある。
その母親の父親に対する嫉妬心を、クライアントは小さい頃から知らず知らずに感じ取っており、若い頃の母親が父親に対して怒りをぶつけていた様に、クライアントが彼氏に対してつい怒りをぶつけていたりするのだ。
もちろんクライアント自身は母親から父親に対してそんなに嫉妬していた話を一度も聞かされてはいない。だが家に帰ってから母親に確かめてみると母親が青ざめて驚いた、なんでそんなこと知っているの?と。なんて事があったりするのだ。
これは母親が、自分のつらい感情を口に出さずとも、エネルギー的に自分の娘に与えていたと言える。
世の中、早く親から離れたいと、この家から出ていきたいと感じて、大人になるとすぐ一人暮らしを始める人もいるだろう。その多くの人は、この親からのエネルギーの重さを無意識に感じて、そこから逃れようとしている部分も結構あるのだ。

逃れられる人はまだいい。
時には、親自身が、そのまた親から厳しく怒られてばかりの満たされない幼少期を送っており、せめて自分の子供には、つらい思いをさせたくないと、その親なりに懸命に子供に優しくする。子供から見れば「私の親は優しくて何でも聞いてくれてとてもイイ親だ」と認識している。
なのに子供は社会に出ると何故か人間関係がうまくいかない、上司に怒られてばかりで満たされない。これは表面的には親は子供に対して優しいのだが、エネルギー的には親が子供に対して「私の様なつらい思いはしないでね」と念じながら優しくしていたりすると、「私の幼い頃のつらさをわかって!」と言うエネルギーを子供に植え付けている事と同じである為に、子供が社会に出た時、親の幼い頃に体験した様な状態を引寄せてしまっていたりするのだ。
こんな風に書くと、親の立場で考えると、もうどうやって子供を育てたらよいかわからなくなるだろう。
ただ一見、子供に意識が向かなくて子供が満たされないケースも、子供に過剰に意識が向いて重いエネルギーを受け取ってしまうケースも、どちらも共通している事がある。それは、親自身の気持ちが中心になってしまっていると言う事だ。一見そうでは無くても、どちらも親自身が自分の事で精一杯の結果と言えるのだ。
だから、本当に繰り返しになってしまうが、子供の為とか思う前に、まず親自身の心が楽になる事、軽くなる事が大切になってくる。まず、その事だけ、今の時点では理解して頂ければと思う。
不安の縁の断切り方
不安の領域は、ごく普通の領域とも言える。この情報社会そのものが不安の領域とも言えるからだ。なので特に、この領域から離れないと苦しいと言うほどのものでもない。多くの人は苦しい事自体に気付かないまま生活している領域とも言える。ただあえて特に不安をあおられ苦しくなるケースを想定して以下にいくつかだけあげておく。
・執着のエネルギーの影響に注意
特にエネルギー的にも影響を受けやすいのは、デパートの特売、争奪戦など。周りに執着のエネルギーの強い人がいると、こちらもそんなに欲しいものでもないのに、すごく欲しくなってしまう。食欲の強い人と同じテーブルで食べると、こちらも余計についつい食べてしまう。流行りだと、みんなが持ってると聞くと欲しくなる。「期間限定」なんて言われると、ついつい買ってしまう人もいるだろう。今買わないと損をする。不安になる。上手に買い物をして得をしたい。安く値切ると言うのもそうだが、多くの場合「損したくない」「得をしたい」と言う考えに囚われている状態だ。
これは先ほどの話で言えば、深い部分で「自分は満たされていない」と言う潜在的不安が刺激されるからだ。
意外と買っても使わないものもあるはず。別に買わなくても困らないものは沢山あるはずだ。
まぁ、世の中の景気の事を考えれば、別に「買う事を楽しむ」と言う感覚であればイイとは思うが、それで借金をするとか生活に支障が出るような場合は、それが本当に必要なものなのか、あらためて感じてみる余裕が必要だろう。そして何故それが欲しいと感じるのか、自分の中の潜在的不安と向き合ってみるのも大切だ。
・お金をかける分野において縁が深くなる
お金をかけると、そこに潜在意識レベルでの集中が起きる。深く関わりたい分野にお金をかけると縁も深まる。
例えばアロマの仕事に就きたいと思うなら、アロマの勉強には沢山お金をつぎ込んだ方がその分野と自然に縁が深くなる。当たり前と言えば当たり前だが、勉強もお金をかけずに安く済ませようと気持ちにブレーキをかけた場合、やはりその結果にもブレーキがかかる。集中度が違ってくるのだ。
これはちょうど宗教のお布施の原理と同じようなもので、沢山のお金をお布施した方が、そこにより集中が起こる為に色んな効果が大きく出やすい。金額の問題でなく、どれだけそこに集中するかの問題だ。
大金持ちが1万円札を落とす時のつらさより、貧しい人が1万円札を落とす時のつらさの方が大きいのと同じだ。
なので、本当に自分が関わりたい分野ならどんどんお金をかけてもイイだろう。ただ、もし詐欺の様なものに知らず知らずにお金をかけていたら、そう言ったものに余計に縁が深まってしまうだけなので、お金をかける先は注意して選択すべきではある。
・メディア情報に囚われない
特に徹夜でゲームをしてしまうなどと言った場合は気を付けた方がいい。なぜ自分がゲームにハマってしまうのか。面白いと感じる裏には、現実が面白くないと感じている自分がそこにいるとも言える。
そのなぜ現実が面白くないと感じるのかが重要で、多くの場合、小さい頃の満たされなかった思いと、今の現実の満たされない状況に重ねてしまっている為に余計に面白くないと感じてしまっている。
小さい頃、何がどう満たされないと感じていたのか、あらためてノートに箇条書きに書き出してみるだけでもいい、客観的に思い返してみると色々気付く事もあるはずだ。
・親子関係の束縛
一般的に常識的に考えて親子関係は大切だ。これは私も否定はしない。ただこの親子関係が逆に重荷になってしまっている人も沢山いる。
ヒプノのお客さんで、よく耳にするのが「いずれは親の面倒をみなければならないので・・」と言う言葉だ。
「・・なければならない・・」と言ってる時点で、これは本人にとってすでに重荷になっていると言う事だ。親に言われたわけでもないのに、そう考えてしまっている人が沢山いる。
では、果たして親は、自分の子供の重荷になりたいと考えるものだろうか。普通はそんな事はないだろう。
確かに子供に頼りたいと言う親もいる。でもそんな親は話をよく聞くと本当は自分の親に甘えたかった、それが出来なかったから、自分でも気付かないうちに子供に依存してしまっているだけだったりする。これは親自身の中で解決すべき問題であって子供の問題ではない。
これまで何度も繰り返し書いてきているが、この人間社会において生じやすい苦しみと言うもののほとんどの原因が、この親子関係の中で生じやすい。一見関係の無い様な苦しみも何らかの形で繋がってくる。運気の善し悪し、無関係と思えるような事故や事件に巻き込まれる様な出来事も、カルマ的な解釈も含めて遡っていくと、今世あるいは前世においての親子関係の中での愛情に対する囚われの問題に繋がってくる。
おそらくこの人間世界と言うのは、この愛情と言うものを卒業していく事がテーマになっている様に思う。
さて、またしても話がそれたが、「親の面倒をみなければならない」と感じるぐらいなら、私は無理に一緒に暮すべきではないと思う。親を施設に預けると言うぐらいの気持ちの方がいいと思う。
こう書くと冷たく聞こえるが、よく考えてみて欲しい。そもそもなぜ自分の親を施設に預ける事が冷たい様に感じるのか。「親が子供に見放されたと感じる」「親が寂しい思いをする」といった点があるかもしれない。
では何故、施設で暮らす事が「寂しい思い」に繋がるのだろう。そう言った施設なら同じような人も沢山いる。世話に慣れたスタッフもいる。こう書くと「馴染めないかもしれない」「苛められる事もあるかもしれない」「所詮そう言った人達は家族ではない他人だ。家族と一緒に暮らした方がイイに決まっている」と思うかもしれない。
では、何故、他人と家族は区別されるのか。
我々は、何故か家族と他人を区別する。人の愛し方に差を作ってしまう。
もし他人であっても家族の様に愛せる人達と一緒だったら寂しいと思う事もないだろう。
しかし現実は、人類の全ての人と言ってもいいぐらい一人一人が心の深い部分に闇を抱えており、その闇が外にあるものと錯覚してしまう為に、他人を他人と区別してしまう。他国を他国と区別してしまう。家族であっても完全に心がうち解ける事も出来ない。
その自分で作り上げた壁に沢山の苦しみが生じてくる。だから仲間意識が強く家族を大切にすると言う価値観が生まれる。でも本当の理想は他人や家族といった区別が無くなることではないだろうか。
まぁ、そんな綺麗事を言った所で、いきなりそう簡単に世界は変われない。今の人間の精神性はまだまだ未熟だ。だからそんな状態で何も無理をする必要はない。
親を重荷だと感じるぐらいなら距離を置いた方がイイ。世の中、核家族がいけない様な風潮もあるが、私はそうは思わない。そこまで今の人間は成熟していない。親と一緒に居て本当に楽なら一緒にいた方がいいが、苦しく感じるぐらいなら一緒に居ない方が互いの為になる。
まずは距離を置いて、そして何故一緒に居て苦しいと感じるのか、自分と向き合っていく事の方が先だ。そうやって自分が楽になれると、あらてめて心から「親の面倒を私がみたい」と感じられた時、その時は一緒に暮らせばいいだろう。
自分の気持ちが楽になると、親の存在も客観的に感じられるようになる。許せなかった事が自然と許せるようになる。
それが親にとっての幸せにも繋がる。
不安の浄化を促進する
・感情の解放について
嫌悪、孤独では「気持ちの言語化」が大切だと繰り返した。エリアシフトワークでは、スピ系視点も兼ねてのカウンセリングが中心になる。自分の引っかかりと思える部分に焦点を当てて深めていく。しかしWEB版ではそれは無理なので、ここであらためて「気持ちの言語化」のコツ、感情の解放の仕方を書いてみようと思う。
【主な感情の言葉】
潜在意識を浄化させ、意識をシフトさせていくには、感情の言語化(吐きだし)が大切になってくる。しかし、ここで気を付けなければならないのは、世間一般的に言われる「感情」と言うのは、本当の意味での気持ちの言葉でないものも含まれている。ここではちょっと中国で言われる喜怒哀楽、「五情」と言うものを持ってくる。
中国の「五情」では、喜、怒、哀、楽に「怨」が加わっての五つ。これらを気持ちの言葉にあらためて置き換えていくと以下の様になる。
~中国の五情~
- 喜:楽しい、嬉しい、(面白い)
- 怒:むかつく、腹が立つ
- 哀:悲しい、寂しい(いとおしい、恥かしい)
- 楽:心地いい、気持ちいい
- 怨:恨めしい、憎い、(悔しい)
さて、この5つの中で、ちょっと他の感情とは種類が違うものと感じられる感情がある。それは「怒」と「怨」だ。
それぞれの感情の時に感じてみるとわかるが、喜、哀、楽は、確かに「自分の気持ち」を表している感じはするが、「怒」や「怨」は、自分の気持ちと言うより「特定の人に向けた気持ち」と言う感じがしないだろうか。
それぞれに「あの人が」と付けてみるとわかると思う。普通「あの人が」と付けると自分の気持ちではなくなるが、「怒」と「怨」だけ自分の気持ちのままだ。
「あの人が楽しい」「あの人が悲しい」「あの人が気持ちいい」・・あの人の気持ちを指している意味になる。
なのに「あの人がむかつく」「あの人が恨めしい」・・あの人の気持ちではなく自分の気持ちの言葉の様になってしまう。ちょっと他とは種類が違うと言う事がわかるだろうか。
何が言いたいのかと言うと「怒」と「怨」だけ、自分の気持ちの言葉と言うより「他人に向けた気持ち」と言う事だ。
これは誰か特定の相手がいないと成り立ちにくい。逆に言えば自分の本当の気持ちからずれてしまっている。
特定の人が憎い、ムカつく、恨めしい時、よく感じてみて欲しい。そのムカつく、腹が立つ、恨めしい気持ちの裏には、必ず「つらさ」「悲しさ」「みじめさ」があるはずだ。それを自分で認める事が、余計につらくなりそうだから、相手に対して腹を立てているのだ。
しかしこの場合、相手が謝ってくるとか、相手が自分に対して何か行動を起こしてくれないと、こちらの気持ちは、なかなかおさまらないものだ。「ムカつく」と繰り返し口にしてもスッキリせず、ことあるごとに思い出してしまって、またムカついてしまう事もあるだろう。
その「ムカつく気持ち」の裏にある「つらさ」「みじめさ」を言葉に出来て初めて楽になれるのだ。
「上司に怒られてムカついた」と友人に愚痴っても、あんまり楽にはならない。そこで友人と一緒に陰口大会になっても余計な罪悪感が伴ってスッキリしない。
「上司に怒られて、みじめだった、つらかった」と吐き出すように言葉にして、それを「つらかったんだね」と素直に受け止めてくれる友人に聞いてもらえると、一番楽になりやすい。そういう友人が思い当たらなかったら、日記や紙に書き出してもいい。
感情の解放は、本当の気持ちが言葉に出来て初めて楽になる。そこにプライドが残っていたり、みじめな気持になるのが怖くて抵抗を感じたままではスッキリしない。
そうやって言葉にしていく中で、同時に何故自分が、「上司に怒られた」と言う部分に囚われてしまうのかという点に、さらに自分で向き合っていけると、さらに浄化が起こりやすくなる。この辺りは嫌悪の浄化でも「問題を相手に預ける」と言う部分でも同じことを書いたが、これが理屈でわかっていてもなかなか出来ない人も多いので、改めて書いた。
・会話の中に感情を含める
感情の言葉を、普段から意識できると一番いい。普段我々の会話は、そのほとんどが「情報の交換」に過ぎない。
「どこそこのラーメンはうまかった」「この間のテレビはどうだった」と言った情報の交換だ。
わざわざ「今日は君と仕事が出来てうれしい。幸せな気分だ。最近一人で出張が多かったから、何だか寂しかったんだ。」と恋人同士ならともかく、男同士の会話で、そこまで自分の気持ちを素直に話してくれる人はなかなかいない。逆にいたら「ご、ごめん、そういう趣味はないんだ」と答えてしまいそうだ。でも、本当は、そのくらい普段から自然に気持ちを言葉に出来るとストレスは溜まりにくくなる。
例えば、そこまでいかなくても「ありがとう、楽しかったよ。また話したいね。」と気持ちを表す言葉を少し意識するだけでも、相手との信頼感は変わってくる。
そうやって周りの人間関係の中で気持ちを表現できるようになっていくと、周囲との縁も自然とシフトしやすくなる。
・過去の気持ちを思い起こしてみる
これまでに何度も子供の頃にその苦しみの原因が生じやすいと、親子関係の中に生じやすいと書いてきた。
過去は分析するのではなく、気になる過去の場面を思い返して、当時の自分の気持ちを感じてみて欲しい。
その時、嬉しかったのか、悲しかったのか、寂しかったのか、じっくり感じてみる。またその場面の中に、登場人物がいたら、特に親がいた場合は、その親に対する気持ちと一緒に、その時の親がどういう気持ちだったのかも想像して感じてみて欲しい。
よくよく思い出すと色んな事に気付く。例えば自分の中で母親と遊園地へ遊びに行った楽しい思い出があると、でも何故か楽しい思い出のはずが、自分の中でそれを思い返すと妙に寂しい気持ちになる。あらためてじっくり思い出す。確かにその場面で自分は遊園地で楽しそうにはしゃいでいた。でも妙に場面がモノクロで寂しい感じがする。じゃあその時の母親はどんな気持ちだったのだろうと感じてみる。
そこで初めて気付く。そう言えばこの時、母親は父親とちょっとした口喧嘩をして、それで母親が自分を連れて遊びに出た時の場面だと。この場面に父親がいない。父親は仕事してたのだと気付く。
つまりこの場面で寂しく感じていたのは自分ではなく母親だったのだと。母親のちょっとした寂しい気持ちが、子供の自分にとってはとても大きな寂しさに感じられてのしかかっていた事に気付けたりするのだ。
だから楽しいはずの遊園地での思い出が自分の中では妙に寂しく感じられたんだなと。
だから大人になっても遊園地に行った時、妙に寂しくなるんだなと気付ける。
そう認識していける様になると、あらためて遊園地も心から楽しめるようになるかもしれない。
大人にとっては何気ない瞬間も子供にとっては大きく潜在意識に刻まれたりするのだ。こんな感じで自分の中で引っかかる思い出を思い返してその時の気持ちを感じる。出来れば気持ちを紙に書き出すとか、人に聞いてもらうなどするといい。
ちなみに人に聞いてもらう事は、先ほど聞く側も重くなるという話を書いた。これを考えると吐き出せなくなるので、一つは、お互いにそういう話をして吐き出す。それがやりにくい場合は紙に書き起こしていくしかないが、上記の様に自分の頭の中で、思い起こして、自分の幼い頃の気持ちを客観的に感じ直すだけでも色々な事に気付けるかもしれない。
